ママが幸せなら子供も幸せ
子育ての仕方に悩んでいるお母さんが
生まれてきた意味や役割、長所に気づき、
親子で幸せを実感できる具体的な方法に興味ありませんか?
保育士歴15年のカウンセラーが導く
占星術カウンセリングの上田昌子です。
保育士歴15年、現在は発達に障がいをもつ、または育ちに困り感のあるお子さん専門の保育士をしながら
子育てするお母さんたちの応援、親子で幸せになれる占星術を使ったカウンセリングを提供しています。
生い立ち
私は4世代8人家族の待望の第1子として生を受けました。
父は仕事人間。
母は大家族ということもあり何かと苦労していたように思います。
それで子供たちを見るより、暇があれば誰か友達と長電話ばかりしていたのが印象にあります。
私には妹、弟がおりましたので父母といるよりは、祖父母と一緒が多かったです。
そして私には、夜、母と一緒に眠った記憶はありません。
幼い弟、妹は、いつも母の隣で眠りについていたのに、もの心ついた頃には
私は祖母の隣に布団を敷いて眠っていました。
私は祖父母にとてもかわいがられましたが、反面、幼い頃から母にはあまり甘えられなかったのです。
私が思春期のころには、母に対しての不信感が湧いていました。
母は趣味の友達との長電話に夢中で私が何をしているか知らない癖に。
勉強していない、ピアノの練習もしていないだの。。。。
また母の私に対する高すぎる期待も嫌でした。
母自身ができないことを私に言うのはおかしいと感じていて反発もありました。
私は本当は母ともっと一緒にいたかった、母にもっと甘えたかった、母にありのままの自分をもっと認めて褒めてもらいたかった。そして本当はとても寂しかったのだと思います。
就職そして挫折 うつ状態
二十歳、憧れであった幼稚園の先生になるものの、とても大きな園に新人たった一人の配属。真面目に実習に取り組み、見た目がしっかりしているように見えるための大抜擢だったと思います。。
本当は全くそんなことないのに。相談しやすい雰囲気も職場になく、同期もなく孤独感でいっぱいでした。
発達障がいの子も担当クラスにいました。
自分の幼児教育の知識、スキルもまだ低く、親御さんたちへの対応にも解らないことだらけで教育者として頼りない私への苦情もあがるようになりました。
上司からの言葉もアドバイスととれず、ダメだしオンパレードのように聞こえ、どんどん自信を無くしました。朝が来るのが嫌でした。そしてある日とうとう職場に行けなくなってしまいました。完全にうつ状態だったと思います。
復活、子育て
しばらく休養ののち幼稚園教諭ではありませんが、同じ法人の事務職として社会復帰できました。
私はここで自分らしさを取り戻し、仲間もできました。
子供たちと関わる仕事がしたいという夢はありましたが、結婚も決まり、数年後出産し、自身の子育てが始まりました。
私は、憧れの幼稚園の先生にはむいていなかったのかもしれませんが、子供は好きでしたから、わが子を授かったことはとても嬉しかったです。
そして今度こそ私らしく子育てができると思いました。
私なりの子育てを楽しみたい。子供と一緒の生活はどんなに楽しくてかけがえのないものだろうと想像しておりました。
理想の子育てと違う! 嫁姑問題?夫の転職4回!
しかし実際は、義理母がとんでもなく張り切ってしまい、私に教えるつもりで親切心でやったことが、手出し、口出し…。幼稚園教諭時代のフラッシュバックのようでした。
おまけに夫が急遽転職したいと、ただただ今の仕事が嫌、転職するならまだ30代のうちにと何のあてもなく、仕事を辞めてしまいました。
夫が仕事を辞める時に、夫は私にむかって言い放ちました。
自分だって仕事、途中でやめたでしょうと。
私は何も言えませんでした。
私はクラスをもっていたのですから、子供たちや保護者の方に申し訳ないことをしたと。
それは今でも変わりませんし、変えられない事実なのですから。
子供が生まれるのに夫が無職!
私は本当は夫に仕事をやめないでほしいと反対したかったのです。
夫は特にやりたい事もあるわけではなく、今の仕事が嫌だから、全くの無計画。
身重の私…。これから家族でどうやって生活するつもりなんだろうと、とても不安でした。
けれど、夫に幼稚園教諭を途中で投げ出したと言われると、その時の私は自責の念にかられて反対することが出来なかったのです。
そして引っ越し 孤独な子育て 再びうつ診断
結婚してから1年のうちに住所が3つ変わり、知らない土地での孤独、頼りの夫も転職したばかり、収入も不安定。
子育てについても初めてなので不安でいっぱいでした。
夜泣きもあるし、昼間は誰とも話すことなく孤独でした。
たまに手伝いに来てくれる義理の母とは残念ながら意見が合わず、反論することもできず、どんどんストレスがたまっていきました。あれ程楽しみだった子育てなのに…。
そして、とうとう、うつと診断されたのです。
ここまで親に心配をかけたくなかった私は自分の母、実家には何も話しておりませんでした。
実の母、実家に頼る決断
夫が仕事を辞めたこと、収入は半年もないこと、転職したが不安定な職種であること。
そしてその時の自分の状況を黙っていたのですが、我慢するのを辞めて母にすべてを打ち明けました。この時、もういい大人で自分自身も母親になっていたのですが、私は母に抱きついて声をあげて泣きました。
私が幼かったころ、小さな弟や妹で手いっぱいだった母に、本当は私も、こうして母に抱きしめてもらいたかったのだなあと感じていました。
母は私の話を親身になって聞いてくれ、私の味方となってくれました。
そうして、わが子のためにも少しでも心が安定するようにと、生まれたばかりの子供を連れ、度々実家に長期で帰るようにしたのです。
幼かったころの私の満たされなかったこの想い、心の中にしまい込んでずっと見ることもしないでほおっておいた心の傷を、母に素直に出して受け止めてもらえた事で私はどんどん安定していきました。
ママが幸せなら子供も幸せ!
環境を変え、自分の心が落ち着く、生まれ育った故郷での子育てができるようにしました。
その頃、夫はなんと3つ目の転職に失敗しました。
私は思い切って私の実家である長野での再就職を夫にお願いしました。
そしてこれがうまくいき、夫にもやっと父親であるということからの責任感も増し、収入も安定し、安心して家族で暮らせるようになりました。
子育ても一人育児ではなく、みんなに育ててもらうんだなという意識でいたり、
義理母の強い期待とダメだしの環境から、離れ、義理母には見守ってもらい、
ダメな自分でもいいのだと受け止めてくれる家族や自分自身の心の変化によって緊張や責任感から解き放たれました。
こうして母も支えてくれたことで幼かったころの私の満たされていなかった心も癒され、慣れ親しんだ環境のおかげもあって、私のうつも改善して子育ても一気に楽しいものに変わっていったのです。
それから数年後には2人目も授かり、マイホームも購入して、ささやかながらとても幸せな日々を送っていたのです。
そんな時にまた転機となる出会いがありました
障がいを持つお子さんとそのご家族との出会いです。
ご近所に住んでいたこともあり、自宅で自立サポート支援としてわが子と一緒に数年間をこのお子さんと過ごしました。まあ預かり保育といったところです。
この障がいを持つお子さんとの関わりから、ああ、やっぱり私は子供が好きなんだなぁ。
こんなにも可愛くてピュアな子供たち。素敵な世界があるのだなと発達支援の現場や、その世界を知っていくうちに私の中にあったある1つの思いが湧いてきたのです。
私の本当にやりたいこと、使命に気付く
自分にはむいていなかったのだなと1度はあきらめた夢。
保育の現場で子供たちと一緒に成長できる先生でありたいという夢を。
今度は私自身の子育ての経験も合わせて、発達に障がいを持つお子さんともっと関わりたいという夢をいだいていました。
そしてそれは自然な流れで起こっていきました。まるで導かれるようにです。
発達に障がいのあるお子さん専門の保育士の募集があり、6年間にわたり、障がい児に関わってきた経験も買われて一度はあきらめていた保育の現場に復帰できたのです。
一人一人の個性や困り感を大切にし、一緒に成長できる喜びを感じられるこの職場、仕事は私のライフワークのようになっていました。
職場で出会う子供たちと過ごすうち、障がいがあっても、その個々(特性)を認め、時に譲り合い、時に折り合いながら、協調しあって楽しく成長できるこの職場の世界観は、まさに私の理想でした。これが私のやりたかったことだったのだとそう思えました。
私はこれまでの人生で色々な経験をして苦しくてもがいていた時もありました。
けれど、今は自分にぴったりのやりがいのある仕事をみつけ毎日がとても充実しています。
これが私のやりたかったことで、私の使命や役割、生まれた意味だったのではないかと感じるようになっていました。
使命の中での気づき 父の死から
そんな充実した日々のなかでも悲しいことはありました。父を亡くしました。
父は病気療養中に急変して何も言わずに逝ってしまいました。父は家庭では無口で私たち子供のことは母任せの人、仕事一筋の人でした。
けれども社会の中の父は社長に就任したり、地域の役員もする人でした。
人との絆や信頼関係を築くのがとても得意だったらしく、多くの人から信用、信頼され頼りにされる人でした。
私はそれを父が亡くなってから知りました。多くの人が私にお父さんにはお世話になったんですと話してくれました。
何も言わずに亡くなった父でしたが、亡くなってからその父の生きざまを聞かされ、教えられました。
人との繋がり、信頼関係、責任感と人情の大切さ。ああ父も自分らしく生きて命を輝かせていたのだなと思いました。
そしてそんなことから、人は誰だって生まれてくる意味、役割があるのではと思い始めました。
みんなから信頼され仕事に生きた父。
子供たちの成長を肌で感じながら一緒に成長し、それを喜びと感じる私。
職場の子供たちはみんなピュアでかわいい、命を輝かせて私に癒しや学びをあたえてくれています。だから障がいをもって生まれてくる意味や、そういうお子さんを授かった意味もきっとあるのだろう。
すべての人に生きる意味使命役割がある 得意がある!
私は、生きること、生かされていることに意味や役割がきっと誰にもあるのだろうと感じたり、考えるようになっていったのです。
そして私も残された命でもっと精神性を高めたり学んで徳を積みたい。
みんなが個性を認め合って協調しあって自分らしく、生きているこの私の職場の世界観ももっと広く社会に広まって欲しい。どうしたらそんな世界になるのだろうか、1人1人が自分の使命や役割を知って自分らしく将来を全うすることができるのだろうか。
それを学びたくて色々と調べるうちにヘリオセントリック占星術というものに出会うのでした。
ヘリオセントリック占星術
ここではさらっとですが、ヘリオセントリック占星術とは生まれた日の惑星の位置を太陽中を中心にみて自分が生まれる時に約束してきたことを読み解く星読みです。つまりは自分の得意や使命、役割を紐解くことができるのです。
ヘリオセントリック占星術からわかった私の使命
夫との関係 私も自らのものを見てみました。するとそこには、私が今保育士をしていることが天職だったのではと思える結果も出ていました。自分の得意、不得意なこともふに落ちることが。そしてまだ自分でも気がついいていない、発揮されていない才能も読み取ることができたのです。これはまだまだ成長過程なんだと実感しました。亡くなった父の盤面も、
自分の家族のものも合わせて鑑定してみました。なるほどの結果でした。
ヘリオセントリック占星術ではこんなふうに、生まれ持った才能や特技、どんな使命をもってこの世に生まれてくるのかを読み解くことがきました。
自分の中の満たされない想いを解放して癒していくとともに、
自分の才能、お子さんや家族の才能、得意なことや役割を知って、その人、その人、が自分らしく軽やかに生きたい。
出来ないことを子供やパートナーに求めたり、自分らしくない事を頑張るよりも、生まれ持った才能を知って、それを活かしたり、伸ばすことで人生はより豊かで軽やかになれるのです。
私は現役保育士をしながら、子育ての仕方に悩んでいるお母さんのみかたとなり、親子で幸せを実感できる具体的な方法を提供できる占星術カウンセラーとして使命をはたしています。それは、ママが幸せなら子供も幸せ。私が私を自分らしく生きていたら周りのみんなも幸せになっていくのです。いっしょに幸せを作っていきましょう。
ただいま、お試しカウンセリングを受け付けております。
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